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教育の歴史

学校ができる前から続く教育を、学校制度ではなく人と社会を作り替える仕組みとして読み直す。

学校の歴史ではなく、教育の歴史として読む

学校ができる前から、人は学び、教え、受け継いできた。 言葉、身体技法、信仰、仕事、判断、世界の見方は、家庭、職場、宗教、地域、同輩集団の中で渡されてきた。

学校は、その広い営みの一部を制度として固定したものだった。 だから教育史は、校舎が増えた歴史だけではない。 誰が学べたのか、何が価値ある知識になったのか、学びがいつ資格や権力に接続されたのかを追う歴史でもある。

この流れを、生活の中の学び、文字と専門家、人格と市民の形成、試験と資格、公教育と権利へ進む道としてたどる。 ある時代に生まれた学びの形は、後の時代に別の目的で使い直される。 書記教育は官僚制に、古典教育は選抜に、宗教的な学習ネットワークは大学や専門職に、公教育は国民形成と社会移動に接続していく。

この歴史で追う5つの問い

教育は何と結びつくたびに姿を変えたのか。 以下の5つの問いは、この先の各時代を読むための補助線である。

  1. 01場所

    どこで学ぶか

    言葉、作法、仕事、儀礼を、まねる、手伝う、語られることで身につける。

  2. 02記録

    誰が記録を担うか

    行政、会計、宗教が、書ける人と読める人を必要にする。

  3. 03形成

    どんな人間を作るか

    市民、信徒、官僚、専門家など、共同体が求める人間像に教育が結びつく。

  4. 04選抜

    誰を選ぶか

    学びは、官職、学位、職業、身分、賃金へ接続する入口になる。

  5. 05包摂

    誰に開くか

    教育は特権から権利へ広がるが、今度は質と排除の線が問われる。

大きな流れ

01学校以前

教育は暮らしの中に埋め込まれていた

学校制度が成立する以前にも、人は家庭、仕事、儀礼、共同体の実践を通じて学んできた。 子どもは、話し方、食べ方、祈り方、働き方、危険の避け方を、生活の中で覚えた。 これは「学校がないから教育がない」という状態ではない。 むしろ、生活のほぼ全体が学びの場だった。

ここでは教師という職業も、授業という時間割もまだ中心ではない。 親、年長者、職人、宗教者、同輩が、それぞれの場面で媒介者になる。 道具の使い方は横で見て覚え、儀礼は参加しながら身につけ、語りは共同体の記憶を次の世代へ渡す。

この教育は、現代の学校よりもゆるく見える。 しかし、共同体の一員になるためには強い拘束力を持っていた。 何を食べるか、誰を敬うか、どんな仕事を価値あるものと見るかは、日々の実践を通じて身体に入っていく。

この層を落とすと、教育史は学校制度史に狭まりすぎる。 デューイは『Democracy and Education』第1章で、社会生活が伝達によって続くことを教育の出発点に置き、学校をその広い営みの中の特別な形として論じた。 ここでいう「学校以前」は、特定の一時代を実証的に描き切る章ではない。 デューイの広い教育概念を手がかりに、家庭、職場、宗教、地域、同輩集団に残り続けた学びを見落とさないための入口である。

02前4千年紀-前2千年紀

文字を扱う学びが専門家を生んだ

  1. 前4-3千年紀都市、会計、行政、宗教が文字を必要にする
  2. 前2千年紀前半古バビロニア期ニップルの House F から書記教育を物的にたどれる

前4千年紀から前3千年紀にかけて、都市、会計、行政、宗教が文字を必要とするようになると、記録を扱う専門家が必要になった。 税、倉庫、土地、契約、祭祀を扱う社会では、記憶だけでは足りない。 粘土板、葦筆、文字、数、書式を扱える人が、統治と経済の基盤になる。

古代エジプトやメソポタミアでは、教育は普遍的な権利ではなかった。 特権的な若者、とくに書記や祭司になる人々が、読み書き、計算、宗教、法、医学、天文学に関わる知識を訓練された。 知識は共同体全体に均等に配られるものではなく、統治を支える少数者に集中した。

前2千年紀前半、古バビロニア期ニップルにある House F は、書記学校と考えられる遺構と粘土板資料から、古代の学習内容を物的にたどれる重要な例である。 ニップルは現在のイラク南部にあたる古代都市で、House F は発掘された建物につけられた呼び名である。

シカゴ大学の古代研究機関が公開する図録は、古バビロニア期ニップルの House F を、1950年代に発掘され、書記学校と広く考えられてきた遺構として扱う。 多数の粘土板からは、初歩的な文字学習だけでなく、語彙、文法、数学、法、文学、神話、歴史などのカリキュラムをたどれる。 ここに見える「学校らしさ」は、文字をただ眺めるのではなく、段階を踏んで写し、覚え、誤りを直しながら身につける訓練である。

ここで確認できるのは、文字そのものが自動的に人を選別したということではない。 文字を必要とする行政、会計、宗教、法の制度が広がるなかで、読み書きや計算を訓練された人々が、統治や経済を支える専門家として位置づけられた、ということである。

この転換は後の教育史に長く残る。 教育は「共同体に参加するための学び」であると同時に、「記録と統治を担う人を作る訓練」としても見えてくる。 文字を扱える人が統治を支えるようになると、次に問われるのは、知識を持つ人がどんな人間であるべきかだった。

03前6-4世紀

教育は人格と市民を形づくるものになった

教育が人格形成になる

体育、音楽、文法、修辞、数学、哲学。 実務の訓練だけでなく、共同体を担う人間像を作るための形成。

前6-4世紀ごろになると、教育は「役に立つ技能を教えること」だけでは語れなくなる。 概説的には、古代ギリシャのパイデイアは、体育、文法、修辞、音楽、数学、哲学などを含む教育と訓練の体系として説明される。 そこから見えてくるのは、読み書きや実務を越えて、共同体が望む人間を形成する教育の姿である。

パイデイアの要点は、知識の量ではない。 共同体を担う人間は、身体を鍛え、言葉を使い、議論し、美や秩序を理解し、判断できなければならないという発想である。 教育は、どんな人間をよい市民とみなすのかという政治的な問いに接続した。

これはギリシャだけの話ではない。 同じころの中国でも、教育は知識を増やすだけでなく、人としてどう振る舞うかを整える営みとして語られた。 孔子の教育思想は、学びを自己修養、礼、音楽、歴史、詩、公共的なふるまいと結びつけた。 孔子は、教育を広く開き、教えることを職能として成立させるうえで重要だったと説明される。

もちろん、こうした教育は誰にでも開かれていたわけではない。 ギリシャの市民教育は女性、奴隷、外国人を周辺に置いた。 中国の古典教育も、後の時代に広がりながら、家族の資源や性別による制約を強く受けた。

この時代には、教育が「共同体の望ましい人間像」を作る営みとして語られた。 後のリベラル教育、市民教育、古典教育、道徳教育は、この問題を何度も別の形で引き継いだ。

047世紀初頭-1905年

試験が学びを官職と身分へつないだ

科挙とは、古典の知識や文章を書く力を試験し、官僚として登用するための制度である。 家柄だけで官職を与えるのではなく、試験を通じて国家に仕える人を選ぶ仕組みだった。

学びが官職への入口になる

7世紀初頭に制度化される唐-清古典学習と官僚登用を結び続ける19世紀近代的な競争試験の参照点になる

O'Sullivan と Cheng は、この科挙を世界初期の大規模な標準化試験制度として扱い、605年に実施され、1905年まで続いたと整理している。 制度の細部は時代によって変わる。 ここで注目するのは、学習、試験、官僚登用、社会的名誉を結びつけた点である。

科挙の重要性は、単に試験が長く続いたことではない。 古典を読み、答案を書き、国家に仕える能力を示すことが、官職への入口になったことである。 学ぶことは、人格形成であると同時に、地位と仕事へつながる制度的な通路になった。

論文は、官僚選抜、男性受験者、資格段階、社会的影響、朝鮮やベトナムへの波及も扱っている。 そこから見ると、科挙は完全な実力主義ではなかった。 受験準備には、時間、書物、教師、家族の支援が必要だったし、受験できる主体も男性に限られていた。 それでも、家柄だけでなく試験で人を選ぶという理念は、支配層と学習者の双方に強い想像力を与えた。

科挙は中国の内部だけで閉じなかった。 朝鮮、ベトナムでは長く制度化され、琉球など中国文化圏にも影響した。 日本にも参照されたが、制度としての受容は限定的だった。 さらに16世紀以降にはヨーロッパにも知られ、近代的な競争試験を考える際の参照点になった。

科挙を通すと、教育は継承や形成だけでなく、社会的な配分装置としても見えてくる。 そう読めるのは、制度の理念と、受験準備に必要な資源や性別制約とのずれが同時に見えるからである。 何を学ぶか、どんな答案を書けるか、どの試験に通るかが、人生の可能性を変える。 この問題は、現代の入試や資格制度にも残っている。

058-13世紀

宗教と都市が学校を越える学びの網を作った

8-11世紀 イスラム圏の学習圏

子どもの読み書き、モスクでの講義、学者を訪ねる旅、教えることを認める証明が、都市を越えて学びを結ぶ。

11-12世紀 ヨーロッパ大学

修道院学校や司教座聖堂学校から大学が分化し、ボローニャやパリ などで専門的な学習空間が作られる。

同じ制度が広がったわけではない。 ムスリム世界ではモスク、マドラサ、学者への旅、イジャーザが学びを結び、ヨーロッパでは修道院学校や司教座聖堂学校の文脈から大学が分化した。 ここでは、それぞれ別の仕組みで、知識が地域を越えて運ばれ、教える資格や学ぶ信用が形を持ち始めた点に注目する。

概説的には、ムスリム世界の教育は、学習の輪、クッターブ、宮廷学校、書店、文学サロン、モスク、マドラサなどが併存する未統合な仕組みとして説明される。 子どもが読み書きやクルアーンを学ぶ場、モスクでの講義、書店や図書館、学者を訪ねる旅が重なり、知識は都市から都市へ運ばれた。

この世界では、学ぶことはしばしば移動を伴った。 Britannica も、学習者が著名な教師のもとへ旅し、講義を記録したことを述べている。 World History Commons は、イジャーザを特定の学問や書物を教える許可、証明として紹介している。 現代の卒業証書とは違うが、誰から何を学んだかを示す信用として働いた。

11世紀以降、マドラサは法学を中心に発展し、1067年にバグダードのニザーミーヤ学院 が創設されると、制度的な高等教育の重要な型になった。 そこでは宗教的な学びと、都市の行政や専門職に関わる知識が重なっていた。

ヨーロッパでも、11-12世紀に修道院学校や司教座聖堂学校の文脈から大学が分化し、ボローニャやパリなどで自由学芸、神学、法学、医学 の制度的な学習空間が作られた。 大学は校舎というより、教師や学生の組合、学位、資格、都市との関係を含む制度だった。

この時代に起きたのは、知識が地域を越えて運ばれる仕組みの発達である。 信仰、法、注釈、専門職、学位が結びつき、「誰が教えられるのか」「誰が資格を与えられるのか」が制度化されていく。

教育はここで、共同体の内側の継承だけではなく、都市をまたぐ専門家ネットワークとして見えてくる。 一つの学校制度ではなく、信仰、法、注釈、都市、教師の評判が学びを結びつけていた点に、後の大学、資格職、研究共同体へ続く系譜を見る。

0615-17世紀

印刷が同じ教材で教える時代を開いた

15世紀半ば

活版印刷が教材と知識流通を広げる

教科書

何をどの順番で学ぶかをそろえやすくする

17世紀

コメニウスが教授法を設計対象にする

15世紀半ばの活版印刷の普及は、教育の条件を変えた。 写本の時代にも本はあったが、印刷は同じ本文をより広く、より安定して流通させた。 これにより、教師と学習者が同じ教材を参照し、学習内容をそろえることが以前より容易になった。

印刷は、単に本を増やしただけではない。 同じ本文や図版を広く共有しやすくし、何をどの順番で学ぶのかを多くの場所でそろえやすくした。

17世紀のコメニウスは、ヨーロッパ教育理論の代表的知性として扱われる。 『大教授学』を通じて、コメニウスは普遍教育、教授法、知識の統一、平和と相互理解のための教育を結びつけた。

コメニウスの構想は、教育内容にとどまらない。 幼児期、母語学校、ラテン語学校、大学のように年齢段階に応じた学校体系を考え、感覚に訴える教材や図版を重視した。 1658年の『世界図絵』 は、絵と言葉を結びつける教材として長く使われた。 Britannica も、この本を感覚に訴える教材として説明している。

印刷と教授法の変化を通すと、教育は教える技術そのものを研究し、設計する対象として見えてくる。 「印刷が同じ教材で教える時代を開いた」という見出しは、印刷そのものだけでなく、同じ教材、同じ順序、同じ教授法を広く設計できるようになった変化をまとめた表現である。

071762年-19世紀

子ども、国民、公教育が同時に発見された

  1. 1762ルソーが『エミール』を刊行し、子どもの発達に合わせて教育を設計する語りを強める
  2. 19世紀公教育、義務教育、教員養成、年齢別学級、標準カリキュラムが広がる
  3. 1830-40年代ホレス、マンらが共通学校運動で公費による共通学校を推進する

1762年の『エミール』は、自然な教育によって子どもを社会的、道徳的、理性的に育てようとする思想実験として説明される。 これは実際の学校制度案というより、仮想の少年エミールの成長をたどりながら、子どもを小さな大人ではなく、固有の発達と経験を持つ存在として描く試みだった。

ルソーの教育論では、幼い子どもに早くから抽象的な言葉や書物を押し込むのではなく、感覚、身体、経験、必要に応じて学ぶことが重視された。 子どもは大人の命令に従うだけの存在ではなく、発達の段階に応じて世界を経験する存在として捉え直された。

ただし、ルソーが近代学校を直接作ったわけではない。 彼の影響は、ペスタロッチ、フレーベル、ヘルバルト らを通じて、子どもの経験、活動、発達、教授法を考える流れに入っていく。 教育は、ただ知識を注入することではなく、子どもの力を引き出し、環境を設計する営みとして語られるようになる。

同じ19世紀に、公教育、義務教育、教員養成、年齢別学級、標準カリキュラムが広がる。 ここで学校は、地域の一施設ではなく、国民国家が子どもを国民として育てる中心制度になっていく。

米国では1830-40年代の共通学校運動で、ホレス、マンらが公費で支える共通学校を推進した。 そこには、民主主義に必要な市民を育てるという理想と、移民、階層、宗教、言語の違いを共通の制度へ組み込むという統治の論理が重なっていた。

この時代の転換は二重である。 ルソーが近代学校を直接作ったわけではないが、同資料は『エミール』が子どもの経験や発達への関心を後の教育思想へ広げたと述べている。 一方で Goldin は、米国初期の教育を民主主義、市民、経済の文脈で整理している。 ここから見えてくるのは、子どもの発達を尊重する教育思想と、19世紀に広がる公教育、国民形成の制度化が、近代教育の中で同時に進んだことだ。

ここから先は、学校制度が広がったあと、教育がどのような言葉で正当化され、評価されるようになったかを見る。 年代は重なるが、焦点は制度の普及から、民主主義、権利、投資、成果へ移る。

081870-1980

学校に通うことが世界の標準になった

大衆教育の拡大速度

1870-1940: 大衆教育は一定速度で現れる

1950年以降: 各国で拡大が急加速する

メイヤー、ラミレス、ソイサルは、120か国の1870-1980年の学校在籍データから、大衆教育が1940年以前は一定速度で現れ、1950年以降に急加速したと整理した。 ERIC の要約は、国民国家モデルの出現と、その中で教育が中心的になったことを加速の要因として示している。

この百年余りで、教育は国民形成、行政能力、社会統合、技能形成を担う世界的な制度モデルとして広がる。 学校に通うこと、年齢ごとに学年へ入ること、標準化された教科を学ぶこと、卒業証書を得ることが、多くの国で「近代的な社会」の標準になっていった。

大衆教育は、読み書き、計算、健康、職業、政治参加へのアクセスを広げる制度として期待され、制度上そう位置づけられた。 国や地域によって差はあるが、学校は社会移動や権利要求の足場にもなりえた。

しかし大衆化は、単なる解放ではない。 学校に入る人が増えるほど、学校は人を分類し、比較し、選抜する力を強める。 標準テスト、成績、卒業資格、進学制度は、より多くの人に機会を与える一方で、誰を上位へ進ませ、誰を周辺へ押し戻すかを決める装置にもなった。

さらに、世界的な標準モデルとしての学校は、地域の言語、生活技術、非学校的な学びを見えにくくすることがある。 学校教育の普及は、伝統的な学びを単純に置き換えたのではなく、何を「正規の知識」と呼ぶかを作り替えた。

大衆教育の歴史は、就学率が伸びた歴史であると同時に、学校が社会の入口を管理する力を増した歴史としても読める。 就学率の伸びだけでなく、学校制度が近代国家らしさ、資格、社会移動、選抜の共通語になっていった点に、この転換の大きさがある。

091916-1960年

教育は民主主義と権利の言葉で語られた

  1. 1916ジョン、デューイが『民主主義と教育』で、教育を民主的な社会生活と経験の問題として論じる
  2. 1948世界人権宣言第26条が教育を権利に置く
  3. 1960ユネスコ反差別条約が教育差別を国際法の課題にする

20世紀に入ると、学校はただ知識を伝える場所ではなく、民主主義の経験を作る場としても語られる。 1916年にジョン、デューイが『民主主義と教育』を刊行したとき、教育は社会生活への参加、経験、探究、共同性の問題として位置づけられた。

デューイにとって、民主主義は投票制度だけではない。 人々が経験を共有し、問題を共に考え、変化する社会に参加する生活の様式でもある。 教育は、そのような民主的な生活を可能にする実践として考えられた。

1948年の世界人権宣言第26条は、教育を基本的人権として位置づけた。 1960年のユネスコ 反差別条約は教育差別を国際法の課題にした。

この時期、教育は国家が必要とする人材を育てる制度であるだけでなく、すべての人に保障されるべき権利としても見えてくる。 国際的な規範は、学校の設置だけでなく、アクセス、標準、質、条件、差別の有無を問うようになった。

101960年代以降

教育は投資になり、包摂と成果で測られた

  1. 1960-70年代以降教育を人的資本、賃金、技術変化への適応として分析する語彙が広がる
  2. 1990 / 2000 / 2015国際会議と国連目標が、教育を包摂、公平、質、生涯学習の問題として定義し直す
  3. 2000年代以降在籍ではなく、実際に学べているかを測る視点が強まる

1960-70年代以降の経済学では、教育は人的資本、賃金、技術変化への適応として分析されるようになる。 人的資本という見方では、教育を、将来の仕事、所得、生産性に関わる能力への投資として捉える。 NBER に収録された Mincer の『Schooling, Experience, and Earnings』は、学校教育、経験、所得の関係を数量的に捉える研究として位置づけられる。 Goldin と Katz は、教育と賃金格差を、技能供給、需要、制度の枠組みで分析する。 教育は自由や人格形成の言葉だけでなく、労働市場、成長、所得格差、技術変化の言葉でも語られる。

20世紀末から21世紀にかけては、学校を増やすだけでは足りないという語りも強まる。 1990年のジョムティエン、2000年のダカール、2015年の仁川宣言と SDG4 は、包摂、公平、質、生涯学習を国際目標にした。 教育は子ども期の学校だけではなく、幼児教育、成人教育、職業教育、非識字、障害、ジェンダー、紛争、移民、貧困と接続される。

UNESCO の Global Education Monitoring Report 2020 は、SDG4 の進捗を見ながら、背景や能力によって教育から排除される人々に注意を向ける。 包摂は、学校に席を用意するだけではなく、誰が質の高い教育に実際に参加できているかを問う語彙になった。

2000年代以降は、学校に入ることと学ぶことを分けて測る視点が強まった。 世界銀行がいう「学習貧困」 は、在籍ではなく、10歳時点で簡単な文章を読んで理解できるかに注目する。 これは、就学率の上昇だけでは教育の成功を測れないという問題意識である。

民主主義、権利、経済、測定という別々の語彙は、教育を異なる方向へ引っ張っている。 教育は民主主義の基盤であり、権利であり、経済的投資であり、測定される成果でもある。 その言葉が増えるほど、教育をめぐる対立も増える。

何度も戻ってくる争点

時代や制度は変わっても、教育史では同じ問いが何度も戻ってくる。

継承と更新

教育は、共同体が失いたくない知識を渡す。 しかし渡された知識は、そのまま保存されるだけではなく、次の世代によって読み替えられる。

形成と選抜

教育は人を育てるが、同時に人を選ぶ。 科挙、大学入試、学位、資格は、学びを社会的な入口へ変換する。

包摂と排除

教育は「誰でも学べる」方向へ広がってきた。 それでも、性別、階層、言語、障害、地域、費用、評価方法によって排除の線は残り続ける。

学習と資格

学校にいること、試験に通ること、資格を得ることは、学んだことと同じではない。 近現代の教育史は、このずれを測り直す歴史でもある。

教育を組み替えてきた三つの問い

教育史を単純な進歩史として読むと、重要なものを落とす。 学校が増えたことは大きな成果だが、教育はそれ以前から家庭、職場、宗教、都市、国家、運動の中にあった。

歴史の中で変わり続けたのは、学ぶ場所だけではない。 価値ある知識、教える人、評価の方法、資格の意味、排除される人の線が変わってきた。

書記学校、パイデイア、科挙、マドラサと大学、印刷教材、公教育、国際的な教育権。 その形は違っても、教育はいつも「何を価値ある知識にするか」「誰に開くか」「何へ接続するか」をめぐって組み替えられてきた。

だから「よい教育」とは、ただ多くの人を同じ場所に集めることではない。 人が世界を受け継ぎ、自分で読み替え、次の社会を作る力を持てるようにすることだ。

出典